3月11日の地震以降、初めての更新です。
このたびの東北・関東地方の被害に、心痛める毎日です。
なにを書いたらいいのか、ずっと考えていました。
私と千葉県に住む家族は被害もなく、無事です。
地震のとき、私は都内のコンビニで宅配便を出そうとしていたところでした。
伝票を書いていたら揺れ始め、これは大きいぞと店員さん、お客さんとみんなで外に出ました。
ゴミゴミとしたエリアにいたので広い場所がなく、
建物に囲まれながら揺れが収まるのを待つのも、正直怖かったです。
地面が大きく揺れ、電信柱や電線がぐにゃぐにゃと傾ぎ…。
車もみんなその場に止まっていました。
しかし、まさかあの地震がこんな事態を引き起こすことになるなんて、
そのときは思ってもいませんでした。
余震が続く中、改めて伝票を記入。
「これちゃんと届くんですかね」なんて店員さんと笑いあいました。
その後にテレビを見て、とんでもないことが起きたことにようやく気づいたのでした。
被害のなかった地域に住む者として、なにをすべきか。
みんなが考え、できることを実行しています。
私はライターという仕事をしていますが、映画や音楽など趣味的なジャンルでの仕事です。
取材をしてそれを文章にするということでは、前線で活動している記者やジャーナリストたちと同じ。
それなのに私は、被災地に行って現状を伝えられる場所を持っていません。
そのことに対する罪悪感が常に頭をめぐります。
私は1977年8月、父親の転勤先だった仙台市で生まれました。
1978年6月の「宮城県沖地震」を経験しています。
まだ9ヶ月の赤ん坊だったので、記憶にはありませんが、
そのときのことはずっと母から聞かされていました。
私は母と、母の友人親子と一緒に街に買い物に出ていて、
地震のときは駐車場の車の中にいたためか、無事でした。
帰宅すると家の中はめちゃくちゃ。
普段私が寝ていたベビー布団の上には、タンスが倒れていたそうです。
もし外出せず昼寝をしていたら…。
幸い家族や知人に怪我はありませんでしたが、ライフラインはすぐに復旧せず、
母は近所の人たちと食料を分け合って、不安な毎日を過ごしたそうです。
今回の地震で、そのときの母の不安が、ほんの少しですがわかったような気がしました。
現在も、母方の伯父が仙台で暮らしています。
今回の地震後しばらくは連絡がつかず不安でしたが、
翌日に携帯電話で連絡がつきました。家族みんな無事でした。
被災地の方の現状を思うと、なにをするにもはばかられるのですが、
まずは私たちが、元気を出す必要があると思っています。
音楽を聴いたり、友人知人と直接会って無事を喜び、励ましあったり。
その上で、常に被災地を想うこと、祈ること。
心で想えば、自然と行動に表れます。節電や募金も行動のひとつです。
原発のこともあり、いろんな情報がかけめぐっています。
とにかく落ち着いて惑わされず、自分なりの考えを持つこと。
これが今の私のモットーです。
また思うところがあったら書くかもしれませんが、
とりあえずこのぐらいにしておきます。
被災をまぬがれた人たちで頑張りましょう。被災地を全力で支えましょう。